現在は主に WOTB(World of Tanks Blitz) で部活動を実施中。サーバーはASIAサーバーのみ。25年ぶりに黒森峰女学園を破り全国大会出場を目標に少ない人数、少ない部予算で活動中。

1964年国際戦車道連盟が戦車走行に関するルールを改めたことに起因する日本戦車道チームの弱体化を図った件について当時問題視された事件。

背景

1962年、三代目主将・疋田フミは学園内に戦車輌研究室を設け海上航行できる水陸両用戦車の開発に成功。
しかし航行中に射撃が難しく沈没が相次ぎ学園でも危険のため研究中止を余儀なくされる。
諦めることを知らない疋田は、当時の学園長小山重治に研究再開直談判するが安全確立が第一であり良い返事は得られなかった。
ただし古式潜水泳法で国体選手であった小山の昔話をヒントに、水中を潜水走行する潜水戦車の開発に着手する。

小山の母校、帝国第五大学の工学部工学科戦闘車両研究室は、疋田の研究依頼を異例の速さで進め、3か月で熊本女学園戦車道部に潜水戦車3両が納品され即実戦投入された。
1963年、熊本県大会で女王「黒森峰女学園」に圧勝し、初の全国大会出場を果たし、全国大会でも初出場初優勝を飾る。
この衝撃的な快挙は世界の戦車道チームも注目しており、戦車道戦術の根本的な見直しと潜水戦車研究が急務であることを知らされる事態となった。
1964年、熊本女学園戦車道・疋田主将率いる「潜水戦車隊」は世界選手権でTop8の戦績を残してこれまでの日本代表最高成績を残した。

ルール規定宣言:「水中走行の禁止」

1965年、国際戦車道連盟は戦車走行方法に関するルール規定を宣言する。
「戦車は車輌に付属した車輪および履帯を地面に接地して自力走行する戦闘車輌である。」
改定前は走行に関する規定文言はなかったが、この改定に伴い水中だけでなく水面を航行する戦車も規定違反となることになった。
当時世界戦ではまだ水中を潜水走行する戦車は登場しなかったが、潜水艦の潜水航行技術を戦車にも展開することで技術的には可能であることは明白だったが、先行開発しすでに実戦投入され効果を発揮している日本戦車道情勢に戦術面と技術面に追いつく必要があることと、追いかける姿勢が欧米戦車道関係者の自尊心が許せないなどが規定宣言を招いたと類推された。

国際戦車道連盟に加盟する日本戦車道連盟においても「潜水戦車など邪道である」という意見が多く、日本戦車道連盟としても走行法に関するルール規定準拠を宣言することになった。
これにより潜水戦車隊で日本一となった熊本女学園の戦車部隊は再び陸上戦車部隊でなければ大会参加できなくなり県大会でも勝ち上がることは難しくなり全国大会優勝すら幻とされ語られることはなくなった。

熊本女学園の復活

1967年、熊本女学園戦車道部八代目主将・宮本紫織は海底面に車体履帯を設置して走行する海底走行戦車への改良に成功。潜行推進よりも移動速度は大幅に減退するものの海中潜水可能時間を10m以上で2時間、10m以内であれば12時間の性能を生かし海中への避難や潜伏の利点のある戦術をもって再び熊本県大会上位進出できるほどの力をつけはじめた。
海底に履帯を設置しての移動により規定違反にはならないため、「熊女潜水部隊復活」と日本はおろか世界の戦車道関係者らが注目した。

再度のルール改定

しかし国際戦車道連盟の動きは早く改めて走行法に関する規定の改定を発表する。
「戦車は車両を完全に水中や地中などに潜る埋まることを禁じる」
という文言に代わることで、前回の規定設置によって禁止となった水面航行は有効な走行へと戻ることになった。
徹底した水中への潜水行為を禁じるのは「安全性」を大前提とした国際戦車道連盟だが、水面航行できる水陸両用戦車は認可してほしいと欧米チームよりルール改定申請を強く受けていたことが大きく影響していると見られている。
いずれにせよ、熊本女学園による水中戦術は二度にわたりルール規定によって禁止されたことは事実であり、これにより熊本女学園は戦車道大会の上位から姿を消すだけでなく休部に追い込まれることとなった。

その後のルール改定

完全に潜水すること自体を禁じるとハザードや川などの走行する戦車が数秒その深さのため完全に潜水することがあった場合に、相手チームの指摘によって反則となり勝敗が逆転するケースが少なくなく、1975年、
「ただし1分までの潜水を認める」
という文言が追加された。

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